へさきの日記。

世界の端っこで大学生が何か言ってます。

アイマスとラブライブの違いて言われましても

さてさて、というわけでブログ始めました。やっぱ文章書かないとダメだよなーって思いまして。すでに一度文章ぜんぶ消えちゃってやめたくなってるわけですが。

 

誰宛に書いてるかもあまりに謎なのでいったいどんなテンションで書いていいかもさっぱりなのですが、まあ探り探りでいきましょう。SNSと連携したりするのがやっぱりいいのかな。

 

ババンと本題にはいっちゃいます。アイマスラブライブの違いについて。これ、先日知人に聞かれたんですけど、そういえば正面から考えたことなかったなあと。というのも僕、アイマスはかなり好きなんですけど(アニメから入りました)、ラブライブはあんまりピンときてなくて、アイマスのことばっか考えてたんですね。決してラブライブが嫌いなわけでもないですが。というか普通に面白かった。

 

どうでもいい配慮は措いておいて、じゃあ何が違うのかといろいろ考えてみたら、結局男がいるかいないかが大きな違いなんじゃないかなって思ったんです。すごく下らない感じがでてきちゃいましたが、けっこう真面目な話なんですこれが。

 

男がいるかいないか。これって、世界に外部が存在するかしないかっていうことだと思うんです。さっそく筆者のこじらせ具合が露呈してまいりました。ガンガンこじらせて行きましょう。どういうことか。

 

アイマスラブライブの違いって、もう少し具体的には成長が描かれているかいないかだと思うんですね。アイマスには描かれていて、ラブライブには描かれていない。ラブライブはいろいろ事件があっても最終的にはもとに戻っちゃうんですよね。とくに何も達成せず、世界はとくに何も変わらない。要は「日常系(空気系)」アニメなんですよ。

 

なぜ世界が変わらないのか。それは単に世界を変える要因がないから。ラブライブは徹底して少女たちの物語で、少女たちの友情の関係性だけで世界が閉じている。開かれていない世界は硬直するに決まってるんです。まあ、そこは二期に期待ですけど。

 

一方のアイマスには外部が存在している。それがP(プロデューサー)なんですね。そしてもうひとつが大人の事情(商業の世界)です。こっちにもっと重点を置いたのがWakeUpGirls!(WUG)だと思います。ここではPのことだけ書きますね。

 

アイマスには外部が存在している。それはアイドルにとってのPであり、少女たちにとっての男であり。そしてさらに重要なのが、アニメ(ゲーム)世界にとっての視聴者(プレイヤー)なんですね。Pは存在そのものが外部でありながら、同時にアニメ世界と僕たち視聴者とを繋ぐ、異世界と異世界のトンネルになっている。世界が閉じていないんです。だから世界は変化し、少女たちは成長をする。

 

成長があればいい、なければ悪いという話ではないです。好みの多様性とかで片付けてしまうのもつまらないのですが、要は「変わらない日常を肯定したい、この日常を変えたくない人」と「この日常を否定して新しい世界を夢みたい人」で支持が分かれるのかなあって思ってます。そして僕は後者なんですね。

 

ちょっと角度を変えてみますね。「魔法少女まどか☆マギカ」というアニメがありました。あれも「変わらない(変えられない)日常から新しい世界へ」というテーマを描いた作品だと思います。いわゆるループものです。じゃあ僕はこの作品を好きかっていうと、別段そうでもないんですね。なんでなんでしょう。

 

そこでやはり重要なのが、男の存在なんだと思います。僕ね、まどかはね、よく分からなかったんです。何が分からないって、なぜああもほむらがまどかに固執したのか、という点がです。友情、なんでしょうか。それとも恋愛感情でしょうか。日本の官僚みたいに、途中でやめるわけにもいかないけど希望もない、というストレスでしょうか。

 

少なくとも僕はそのどれにも共感できなかったんですよね。僕はあんまり友情を信じていませんし、そもそも男ですし。恋愛感情だとしたら、同性愛ってことですけど、それも僕にはよく分からないです。別に同性愛自体には寛容なつもりですけど、それと共感できるかどうかはまったく別の問題ですし。あとやっぱり、同性愛だったしてもそこに外部は存在してないような・・・。

 

結局、なんで世界が変わったのか、変われたのかがよく分からなかった。それが僕にとってのまどかでした。そのあたり、美少女ゲームはシンプルにセックスが解なので、いいんですけどね。美少女ゲームあんまり詳しくありませんが。

 

そしてこの問題はグレンラガンとキルラキルの違いでもあると思うんですよね。グレンラガンは世界の端っこで無為な日常を過ごしていた少年シモンが二人の少女(ヨーコとニア)と出会って大人になっていく物語でした。超訳ですが。アニキも憧れという外部として重要ですね。

 

一方のキルラキルには、メインアクターに男がいない。少女たちがなんだかよく分からないけど頑張っているという、ただそれだけの物語でした。というかあれ、僕のなかでは実はアイドルアニメです。というかももクロアニメでしたね。恋愛とかさっぱり描かない(キルラキルにもネタとか萌え要素程度ならありましたが)。とりあえず超頑張ってる。それで、そのうちは卒業しないといけない。普通の女の子としての日常に帰っていく。うーんこのアイドル感。そりゃ人気も出るわけだ。

 

そして僕は当然、キルラキルにもももクロにもピンときてないんですね。どちらもとっても面白いとは思うんですけど、面白いとか頭で思ってる時点でもうなんか違いますよね。話それすぎなんでもうやめますけど、この両者はとてもヤンキーっぽいなあと思います。斎藤環さんのヤンキー批評読んでるとそう思いました。ヤンキー的なものが女の子に化けて復権してきている。ちょっとまずい予感がしますね。

 

思ったより長くなっちゃったというか、とても疲れました。ライターさんってすごい。ここらで適当にまとめちゃおうそうしよう。うだーっといい加減にやっていくことが長続きの秘訣だってタモさんが言ってた。気がする。

 

アイマスラブライブは何が違うか」

 

アイマスには外部が存在していて世界が変化していく。ラブライブは日常が続いていく。

 

なんだかとってもシンプルになってしまいました。遠回りしすぎだ。ただ、今思いついたのは、斎藤環さんのヤンキー批評って、ヤンキー的な感性は古事記に遡るほどに日本人に深く根付いたものだっていうことなんですけど、日常が変化せずに巡る、っていうのも日本っぽい感じがしますね。循環史観というか。そういえばアイドルプロデューサーに転身する濱野さんもアイドルの世界に輪廻転生を見出していたような。

 

アイドルについてもちょっと掘り下げて考えてみよ〜っと(o・▽・o)